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青柳拓治

ミュージシャン

テキスト、サウンド、ビジュアルを用いて表現するアーティスト。
LITTLE CREATURES、ソロユニットのKAMA AINA、青柳拓次名義で音楽活動中。 2009年は、映画「ホノカアボーイ」「eatrip」「NUKABA」音楽劇「トリツカレ男」の音楽を担当。 同年10月には、絵本「つきのなみだ」(絵:nakaban 詩:青柳拓次)を発売。 また、詩画集「ラジオ塔」の発表、フリーペーパー「bounce」、雑誌「ソトコト」で詩やコラムを連載するなど、言葉の世界での活動も多岐にわたる。
2010年8月4日、青柳拓次名義での約3年振りの新作「まわし飲み」を発売予定。
9月23日(木) には、東京・青山EATSand MEETS Cayで、アルバム発売記念祭を行う予定。

写真を撮るとき、奇跡的な瞬間はほんの少ししか訪れない。

AoyagiTakuji-pic

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まわし飲みジャケット

─ 空から人が……落ちてきていますね。パラグライダー? パラシュート? これはどういう状況なのですか?

小型飛行機からスカイダイブしている人を見ている風景です。場所はスコットランド。空は曇り空。ツアー中だったから5年くらい前の春のことですね。イギリスやスコットランドの人って雨が降ってもあまり傘をささないし、いつも雨にぬれても大丈夫な格好をしている。このふたりはパステルズというバンドをやっていて、飛んでいるのがカトリーナ。眺めているのがスティーブン。

イギリスにはおもしろい課金システムがあって「今度、私はスカイダイブします」という希望やチャレンジをウェブサイト上で宣誓する。そうすると、そのページを見て賛同した友人や知人がクリックで寄付をしてくれるんです。このときのカトリーナは、彼女が働いている障害者施設のチャリティーの為にスカイダイブしました。

この日は彼らと3人でスコットランドの田舎町に出かけたんです。カトリーナは小型飛行機で飛び、2000メートルくらいの所からたったひとりで降りてくる……。楽しんでいるように見えるかもしれないけれど、「あいつ大丈夫かな」って下で待つスティーブンはずいぶん心配していたなあ。

─ 2010年8月に発売した「まわし飲み」のジャケットはカラフルで力強い色調の写真でした。当時の青柳さんの写真はカラーが多いけれど、この頃はモノクローム作品が多いのですか?

最近はカラーが多いけれど、いまだにモノクロームの気持ちで撮っています。僕にはカラーの情報の多さが時に、語りすぎる場合があるんです。スカイダイブの写真はオリジナルのネガが無くなってしまったので、彼らから送り戻してもらった。プレゼントしたんだけどね(笑)。今作っている本の表紙にいいかなあと思って。この写真を撮ったとき、良いのが撮れたなというか、良い場面に出会えたという気持ちを覚えています。「まわし飲み」のジャケットもそんな感じがしました。奇跡的な瞬間はほんの少ししかない。そんな瞬間って、撮りながらシャッターが手を叩いているようなものなんじゃないかな。世界を祝う瞬間のように。

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写真は趣味であって趣味ではない。ひとりで完結するために物を作っているわけではない。

AoyagiTakuji-pic

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─ スカイダイブの写真は不安や安堵感を共有している。彼らの友だちじゃないと撮れない一枚ですね。写真を撮ろうと思う瞬間とはどんな時ですか?

反射的な物や直感的な物にしたいと思っています。お祝いっぽい瞬間に偶然居合わせた時に撮りたくなる。たとえば、波打ち際に魚の死がいがあるとする。それも、その場に居合わせる事ができたある種の「お祝い」。「ああ、ありがたいなあ」という感じ。でもね、僕は昔から「ありがたい」という気持ちを良く感じていた方だと思うけれど、最近はより強くなっているかもしれない。

─ 青柳さんは音楽だけでなく、文章を書き、写真を撮りますね。音楽と写真には共通点はありますか? あるいはまったく違うのでしょうか?

似ているところは、僕は「物」を作っているとき、発明家の気分でいるときがある。発明家はきっと、「世の中にこういう物が必要だろう」と思ってなにかをつくるのでしょう。僕にも写真を撮るときや音楽を作るとき「世の中に必要であろう」という気分はどこかにある。うまれた「物」が「発明」として、実際にひとの生活に寄り添っているかは結果なんだよね。だけど、根底には発明の喜びや発見が常にある。写真は趣味であって趣味じゃないというか、ひとりで完結するために物を作っているわけではない……そんな思いはありますね。

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コーヒーやタバコのような嗜好品ではなく、できれば、おかずくらいの作品を作りたい。

─ では、カメラと楽器との間には共通点を感じることはありますか?

違いははっきりしている。カメラは「存在する物」を撮るからね。音楽もまったくゼロから作ることは不可能だけど、「現実にない物」を作ることがある。 でも両方、直感はひたすら使いますね。それはとても大切にしている。僕の表現上、理屈があまり必要なくなっている。コンセプチャル(概念、考え方)なものから離れている気がする。たとえば、「これはこういう作品ですよ」というコンセプチャル・アートがあるとする。「なるほど」と思う反面、狭い範囲の人に向けての表現っていうのが、自分の中では終わってしまっている。知識のある「限られた人」に向かっているものは、もう僕には楽しめないんです。

─ 新アルバムの「まわし飲み」というタイトルひとつにしても、情景が言葉から立ち上がってきます。音楽も写真も理屈を押しつけるのではなく、見る人・聞く人に委ねているのでしょうか。

そうですね。だけど「これはこういうもの」と、イメージはどうしても付随してくる。勝手に付いてくる物はしょうがないのだけど、自分で意味をつけすぎる表現には魅力を感じない。ただ、タイトルのような手がかりになるキーワードは必要だと思ってます。少し前までは、タバコやコーヒーという嗜好品のような側面の音楽を作っていたように思う。主食の米やパンとはいかないけれど、おかずくらいの位置に入り込めたらありがたいなという思いがありますね。

写真も同じです。過渡期にいるような気がする。ああだこうだと考えて撮ってきたのが終わりにさしかかっている。これから先の自分自身の写真がどうなるのかは楽しみなんです。だから、人の写真を見てもソウルミュージックみたいな物でないと心が動かないですね。たとえば、世界で共通しているのは子守歌だと思う。お母さんが子どもを寝かすための曲なんて限定的でとても個人的なソウルの原点じゃないかな。そういうものに僕は動かされますね。

─ 冒頭の写真。青柳さんに説明していただく前と後では印象が変わってきます。写真というメディアを青柳さんはどうお考えですか?

今の時代はすでに、「対象をしっかり撮る」ことの意味が薄れてきているように思う。カメラの性能が良いから、くっきりした明快な写真は誰でも撮れる。写真をそこから先の「アート」に持って行くには大変な過程があると思うんだけど、僕はそこに挑戦する気はしない。僕が撮りたい写真は、墨絵を描く人が黒のグラデーションで山を描くようなことに近いのかもしれない。

─ 山を正確に写し取るのではなく、山そのものを描きたいと。

そうですね。きれいに撮るとか、風景を写し取ることが僕の中では意味がなくなっていますね。今はCONTAXの中判カメラを使っています。これまで15台くらい使ってきたのですが、生きているリズムと合ってベストの絵ができる。

僕は視力が悪いんだけど、あまりメガネをしない。それは肉眼で見たいという気持ちがあるからなんです。ある時、アボリジニの絵画展を見に行ったんだけど、なんだか絵が飛び込んでこない。遠いんですね。だけど、メガネを外した瞬間、ドンと来た。それから、意識的に肉眼で見たいという気持ちがある。

今使っているカメラにはオートフォーカスが着いているから、僕の肉体的な弱みを補ってくれる(笑)。もちろん、それだけではなく、中判カメラは大きくゆっくりと撮ることができるんです。今後、僕が進むであろう世界は、……熱とか気持ちの揺れや速度とか画面に現れるような物が撮れればいいなあと思っています。そういうものが、撮れたらいいなあ。

AoyagiTakuji-pic

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2010/9/10 取材・文 井上英樹/構成 MONKEYWORKS
写真 藤堂正寛/Webデザイン 高木二郎

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