Re:Sの事務所がある兵庫県神戸市のお隣、芦屋市。ここ芦屋を含めた神戸から大阪にいたる阪神間は、六甲山系の美しい山並みと海に挟まれた土地で、昔から数々の文化が育まれてきました。なかでも、大正後期から昭和初期にかけて生まれた文化の数々を「阪神間モダニズム」と呼びます。
その時代に、芦屋で写真店を営みながら写真家として活躍した1人の男性がいました。その人の名前は、ハナヤ勘兵衛。ニューヨークとパリで写真家として活躍した中山岩太らと芦屋カメラクラブを設立し、多重露光やフォトモンタージュを駆使したモダンな作品を多くのこしています。
ハナヤ勘兵衛さんが始めた店は今も芦屋にあって、現在は勘兵衛さんのひ孫にあたる桑田敬司さんが営んでいます。国道沿いに建つその店の前を何度も通りかかっていた私は、今回初めて「ハナヤ勘兵衛」へ伺って敬司さんにお会いしました。守りたい大きな看板を前に、今の自分ができることを考え続ける若き店主のお話、ぜひ読んでみてください。
高木:今、桑田さんで何代目になりますか?
桑田:4代目です。僕は今年36歳ですが、2年前に父が病気で亡くなって、そこで代表になりました。店では10年ほど前から働き出したんですけど、もともとは飲食店の雇われ店長で。結婚を期に、昼の仕事に転職したいという安易な考えで、自分の家が写真屋やし、人手も足りない、売り上げも下がって苦しいって言ってるから、ほんならやろかーって、そこから10年。会社の経営や写真業界、カメラ屋さんの今後について、ちゃんと自分で考えるようになったのは父の病気がわかってから、ここ2、3年のことです。
高木:ご兄弟は?
桑田:姉と弟がいます。姉は店でいつも写真を焼いていて、弟は全然関係ない仕事で、東京でサラリーマンをしてます。僕は大学生の頃から手伝いをしていたんですね。配達とか、あと、うちに徳宮っていう30年選手のカメラマンがいるんですけど、そのアシスタントで荷物を運んだり。とはいえ、その頃は半分興味本位で、アルバイトみたいな感覚。で、いざ働きはじめたときも、当時は撮影技術とかカメラやプリントの知識を高めていけばなんとかなるだろうと、わりと簡単に考えていたんです。でも、今から5年ほど前、デジタルカメラにぐっと移行した後くらいに、もう撮影の腕や商品知識を増やすだけでは店は続かないと気付いて。その時に改めて、写真屋って今後大丈夫なんかな、と。それでも、まだ他人ごとだったんです。当時の社長は親父でしたから、まあ親父がなんとかしよるやろうって。でも、そうこうしているうちに病気がわかって、いよいよ自分が真剣に取り組まないかん、という状況に。
高木:なるほど。突然やってきたわけですね。
桑田:そうです。それまでは詳しいことをあんまり理解してなかったですよね。ひいおじいさんがハナヤ勘兵衛っていう変わった名前で写真撮ってたらしい、くらいの知識でした。でも、いろいろ知っていくと、僕の中ではツルっと頭の禿げたおじいちゃんっていう記憶しかない勘兵衛さんは、どうやらちょっとすごい人やったみたいやなって。今でも出版社から写真を貸して下さいって連絡が来ます。そういう状況は、やっぱり恵まれてるなぁと。そして、うちには創業84年の実績、看板がある。だから、僕がやるべきことは、ハナヤ勘兵衛という名前をのこしつつ、昔から通い続けてくれているお客さんに満足してもらって、さらに新しい写真好きのお客さんを増やして育てていくことなのかなと思っています。
うちの常連さんは年齢層も高いのですが、たぶん写真好きの人の中では、だいぶコアな部類だと思うんですね。昔からのフィルム写真が好きで、いつものカメラとフィルムで撮影して、いつものお店に頼んで写真を焼いてもらって楽しまれる。よその方が安くすむ、とかそういうことは考えてなくて、うちなら安心なんやっていうクオリティへの満足度を重視する。価格は正直、安いとこ探したらなんぼでもあります。うちでは「下げられる値段はここまでです」ってはっきり言います。でもそのかわり、しっかり最後まで面倒見させてもらいます。わからへんことがあったらいつでも相談にのりますし、それでお金がかかることはないです。なんやったら、連絡してもらえば僕が直接お客さんの家まで行きますんでって。きっと、お客さんもそういうやり方に満足してくれているんで、今の時代でもそこそこカメラが売れるんだと思います。僕自身はまだまだですけど、うちには勘兵衛さんのかばんをもって一緒に撮影に行って、勘兵衛さんの作品を焼いてきた30年、40年選手のスタッフがいますので。
高木:桑田さんはその方たちの元アシスタントですもんね。
桑田:それは、今も変わらないんですよ。会社の代表取締役って肩書きがついてても、撮影に行くときには徳宮にお願いして、僕はもう後ろに付いて「おい、レンズ」「はい!」って(笑)。
高木:(笑)。
桑田:徳宮は、モノクロ時代から写真を始めて、暗室で写真を焼いて撮影もして、カラープリントへの変遷も経験して。そして2000年に先代の親父が「これからの時代はプリントがデジタルになる」って、いち早くフロンティアを導入してからはデジタル関係全般もマスターしました。
高木:コアな写真好きではない、一般のお客さんも来られるんですか?
桑田:そうですね。「旅行に行ってきてん」ってSDカード持ってきて、「1枚づつ焼いて〜」っていうお客さんも多いですよ。コンパクトデジカメが普及しだしたときに、DPEの売上げがグッと下がったことがあるんですね。自分の家のプリンターでプリントしてみたいなっていうお客さんが多かったんでしょうね。でも結局のところ自分でやるのは面倒だし、あんまり綺麗じゃないっていうので、結果的にうちに帰ってきてるんですよ。で、今となってはもう「プリントはまかせるわ」っていう人が多いですね。
高木:なるほど。
桑田:もちろん好みっていうのがあるから、フィルム、デジタルに関わらず、あのおじさんは濃いめの色調が好きや、とかわかったら、もう僕らは全員そのつもりで焼くんで、お客さんの好みを掴んで焼いているっていうのはあります。あと、特にアピールしているわけではないですが、正直クオリティの合格ラインが高いんだと思っています。僕の姉も10年焼いてますし、もう1人の女性スタッフは、もう30年近く焼いてます。僕が入ってすぐの頃、よく焼き直しさせられましたからね。当時の僕から見たら、色も飛んでないし、ちゃんと焼けてるじゃないか、とか思ったりしたけど、やっぱりそこは長年の看板を守っていくために、クオリティへ強くこだわっていたということなんですね。それがお客さんにも伝わっていて、「近所で出したんやけど、全然色があかんねん! もう一回焼き直しして」って持ってこられる方も多いです。
高木:神戸では今、新しい写真ギャラリーを始める若者たちが現れたりと、若い世代のなかで新しい写真の動きの兆しが見えてきていますが、そういう方々が、ハナヤ勘兵衛さんやこの店の存在を知っているかという話になると……。
桑田:知らないでしょうね。
高木:でも、こちらのお店がそういう若い世代とつながったときに、きっと新たな需要とか、お店にとってプラスになることが絶対にあると思うんです。知ってもらうための資料もたくさんお持ちだと思いますし。
桑田:幸い、阪神大震災前に写真や資料、遺品などをすべて芦屋市立美術博物館や兵庫県立美術館に預けて管理してもらっていたので、ちゃんとのこっています。震災でここにあった前の店は潰れてしまったので。
それに昨年、芦屋市立美術博物館で回顧展をやって、僕も改めて中山岩太さんのことや、芦屋カメラクラブのことなど、資料をたくさん見せていただいたので、少しぐらいならお話できると思います。あと、ちょうどそのときに、芦屋カメラクラブはじめ、市内の写真クラブと、近隣の大学の写真部とコラボして写真展をやったんですよ。そのときに初めて僕も、今の若い世代、大学の写真部の子らと交流する機会があって。僕らとしても、お客さんがどんどん高齢化していて、確かに質を求めて熱意を持って写真に携わっている方々なんだけど、平均年齢が高くて30、40代あたりが極端に少ないのが悩みで。若い世代を取り込むこと。これはもう主に僕の仕事で、いろんなとこに顔を出して、そういう写真部の人たちとのつながりもたくさんつくってきました。実は、ハナヤ勘兵衛さん自身も学生写真運動を頑張って進めてはった人なんです。
高木:へ〜!
桑田:当時、写真を記録するための技術から芸術に昇華するためには、学生にその意識を教えなあかんって、関西学生写真連盟の顧問になったんです。当時はとても高級品やったカメラやフィルムを提供して授業に行って。あと、店の売上げを持って学生を飲みに連れまわっていたと、ひいおばあちゃんから聞きました(笑)。
高木:(笑)。
桑田:それを知っていたんで、じゃあ、今の学生さん達に写真を楽しんでもらうためにうちができることは何やろう? って。実際に会ってみると、向こうが欲しいもので、うちが提供できるものっていっぱいあるんですね。学生さん、お金ないじゃないですか。でも熱意とセンスはある。だから、例えば、スタジオを貸してあげたり、「今度こういう撮影がしたいけど機材がない」「ほんならうちのやつ持っていき。大事に使ってね」って。「一度しっかりとしたプロの人に教えてほしいんです」って言うから、「じゃあ、今度うちの徳宮を講師で派遣するよ」とか、「いっぺんプロの暗室マンと暗室一緒にやってみ。ほんなら絶対勉強になるし、得るものいっぱいあるから」って。まだこの話は企画段階なんですけどね。そこでお金を取る気は一切無いんですよ。学生さんにチャンスを与えて、結果すごくいいものが撮れたら、たとえうちにお金の面でのメリットがなくても写真業界にとってはプラスじゃないですか。
高木:そうですね。
桑田:いいものをいいお値段で提供するっていうのが僕らの商売ですが、それとは別に、その、いいものを下の世代に知ってもらうパイプ役となるのも、地域の写真屋さんの仕事だと思うんで。この間も4×5のカメラを神戸大学の写真部にあげたんです。うちの常連のお客さんで、「重たくなったからもう使われへんねん、なんとか処分方法ないか? 捨てるのは忍びないし」って言われたのを、「じゃあ、大学の写真部にあげてもいいですか?」って。そういうことができるのはうちだからだなって思うんですよね。カメラの使い方も、何を聞かれたってスタッフが答えられますしね。
高木:心強いですよね。
桑田:学生さんが、「こないだ撮影で遠出してきたんですよ~」って写真を見せに来てくれて、「どれがいいと思います?」なんて、一緒に盛り上がれるんですよね。そんなやりとりに、元気をもらえます。通常の業務の中では売り上げにしても、商品の存続にしても、なかなか良い話って聞けないから。でも学生さんには勢いと力がある。
実は、「ハナヤ勘兵衛」を閉めて違う仕事をした方がいいんじゃないかって考えた時期もあったんですよ。でもやっぱり辞めるわけにはいかない。辞めると、家族が生活できないし、何より先祖に対して申し訳ないから。でも、進化しないと生きのこっていけない。だから、まず今の僕の役割は、学生さんだとか、僕が築いている新しいつながりの中で出てくる相手のニーズ、「これできますか?」「こんなんありますか?」に、「できますよ」「ありますよ」って応えられるように挑み続けること。受け皿になれたらと思うんですよね。それがすべてボランティアになってしまったら会社が成り立たないから、経営者として新しい視点でものを考えて、それが店の経営にもプラスになるように働けば一番。そういう努力はこれからの僕の課題ですね。2年やってるけどまだまだ修行中です。でも、きっといつだって僕が振り返るべきところは店のルーツにあるんだなと思っています。