東京から関西へと戻る途中。東海地方で良い写真屋さんはないかなあ? と見つけたのは、静岡市にある「オオノカメラワークス」。江戸幕府を開いた徳川家康が1605年、息子の秀忠に将軍の職を譲り、その居城とした駿府城(すんぷじょう)。そんな城下町としての歴史を感じる商店街にあるお店で、大野仁志さんにお話を伺いました。
写真に対して真摯に向き合った結論として、暗室やギャラリー、そしてモノクロフィルムでの出張撮影など、次々に原点回帰していく「オオノカメラワークス」の未来へのチャレンジは、これからの写真屋さんのあり方の一つのスタンダードのような気がしています。
父から引き継いだ、大切な店
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藤本:お店は、何年になるんですか?
大野:僕の父の代から始まって、もう50年経ちます。父は平成4年に他界したんですが、静岡を出て東京に行った僕に、いつも「とにかく地元に帰ってこい」って強く言っていましたね。もちろん僕も、最初から店を継ぐつもりではいたんですが。
藤本:東京へは大学進学で?
大野:はい。で、卒業した平成2年に静岡に帰ってきて就職して。そして、その年の10月に父が倒れたんです。僕、ずっとバレーボールをやっていて、高校時代に国体の選抜チームに選んでもらって。でも大学に入ってからは周りのレベルの高さに自分の限界を感じて、バレーを続けることはあきらめたんです。でも、高校の時に、父が中心になって父兄会を立ち上げて、僕が高校卒業してからも、父は仕事を休んで、広島、北海道までバレーの試合を観に行ってました。倒れた日も、ちょうど福岡に試合を観に行った帰りで、店に寄って、たまった仕事を片付けていた時でした。
藤本:そうなんですね……。
大野:父はバレーが好きだったんですよね。で、そこから僕が店を継いで仕事をやるようになりました。集配に回る人間がいないからということで、就職していた会社も辞めて、朝からフィルムを集めて、プリントを焼いてっていう作業を。
藤本:集配の業務があったということは、まだ写真店の経営も安定されていて。
大野:そうですね。あの頃は、証明写真が撮れてプリントの受付ができれば良かった。
藤本:そうですよね。
大野:だけど僕は、全然写真の勉強をしてきていないので、少し前に、写真家のMOTOKOさん(しゃしんのカタチ第9回 参照)が教えるポートレートのワークショップに参加したんです。そこには、写真家志望の方がたくさん来てたんですけど、その時にMOTOKOさんから「町の写真館には町の写真館としての仕事があるから、その仕事を全うしたらどうでしょう」ってお話いただいたんですよ。その言葉を聞いた時に、「やっぱり、そうだな」って思いました。「町の写真屋としてできることをやろう」って。もちろん写真館の仕事としてのカメラマンではあるんですけども、それと同時に町の写真屋として何かできることはないのかなって。
藤本:なるほど。それは大きなきっかけですね。ちなみに、平成2年で帰ってこられたということは……
大野:もう23年になりますね。
藤本:23年か! となると、本当にこの業界の変遷を体感されたわけですよね。
大野:ああ、もう、ものすごい減り方でした。プリントは10分の1とかになっていますよね。
藤本:お父さんが亡くなられて必然的に携わった商売だと思うんですが、数字も落ちていく中で、「そもそも商売替えをしたほうがいいんじゃないか」とか思われませんでしたか?
大野:考えないことはなかったんですけど、やっぱり頑張れるところまでやろうと。でないと、父に申し訳ないっていう思いがあって。
藤本:そうか……。
大野:まだ何かできるんじゃないかなって思っているんです。異業種の方とお話をしても、どこも大変だっていう話も聞きますし。それに、子どもの頃から、長男ということもあって当然、店を継ぐつもりでいました。
守るために決意した、大きな投資
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大野:継いだ当時の店の雰囲気は今とは全く違います。昔の個人商店だったので、居住スペースも混在していて、食卓があって、トイレがあって、小さな暗室があってっていう。昼ごはんも晩ごはんも店のすぐ奥で食べるから、お客さんに「ああ、いいにおいね。今日はカレー?」とか言われたり(笑)。今は店の2階に住んでいます。
藤本:2階は何のスペースだったんですか?
大野:いや、もともと2階はなかったんですよ。だからもう、ここの改装に踏み出した時は一大決心でしたね。何年も迷い続けて「よし、やろう!」って思ってからも、なかなか動けなかった。その一方で、どんどんどんどんプリントも売上も落ちていく。その間も、妻や母と「このままではやっぱりまずいだろう」っていう話はずっとしていて……で、そこから約3年を経てやっと思い切ることができたんですよ。
藤本:改装する時は、どういう店にしようと?
大野:写真屋さんって、プリントとかはっきりとした目的を持った方しか来られないじゃないですか。ふらっと来ることはない。でも、改装する時には「この店なんだろう?」って気になって入ってきていただけるような場所にしたいなって。入ってからやっと、「写真屋さんなんだ」って気付いてもらうくらいでもいいよねって話をして。だから、雑貨もいろいろ揃えようと思って、いろんな雑貨屋さんで可愛いのを見つけては、メーカー名をチェックして電話して、っていうことも地道に続けて。で、ちょうどその頃に、撮影会や店での企画展もはじめました。そこから、もう5年になりますね。今思えば、本当にその時決心してよかったです。そうでなければ、今頃は勤めに出てるか、商売を変えていたかもしれません。
銀塩写真を体感できる場所
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大野:僕は、フィルムの、銀塩写真の美しさが本当に好きで、お客さんにも「フィルムを使いましょう」って言うんですね。で、暗室も欲しいな、それに写真も展示できたらいいなと思って、この先の6軒隣にスペースを作ったんですよ。レンタルギャラリースペースとして写真展をやってもらったり、月に1回うちが主催する企画展もやったりしています。
藤本:ギャラリースペースの予約は結構埋まっているものですか?
大野:正直、ギャラリーも暗室も、なかなか難しい部分がありますが、一生懸命使ってくれている若い子がいるので、がんばって続けていきたいなと思っているんですよ。
藤本:こちらの暗室ではカラープリントもできるんですよね?
大野:そうです。もともと初めてだった方がほとんどだったので、僕が独学でやってきたことを教えて。でも、今ではその方々も自分たちだけでプリントされていますね。
藤本:大野さんは独学で。
大野:はい。子どもの頃に父が焼いているところを見ていたり、教えてもらって自分で焼いてみたりしたことはありましたけどね。あと、去年のはじめくらいに写真家の平間至さんの店、PIPPOにお邪魔したことがあって、その時に、たまたま平間さんがおられたので少しお話をさせていただいて。で、それがきっかけで山崎塾っていう写真の勉強会に、9月から11月まで隔週で参加しました。
藤本:すごい! 仕事のかたわら3ヶ月浅草に通って?
大野:はい。そこで1日だけ平間さんのバライタプリント(※乳剤の中に硫酸バリウムを混入した印画紙。現像の進行が通常の紙よりも遅いため思いどおりの調子に仕上げられる)を焼くワークショップがあって、教えていただいた。あとは、うちのお客さんで写真学校を出られて、今、自宅で暗室持っている方がおられるので、その方に水回りを作ってもらったり、必要な物を教えてもらったりして。
でも暗室もなかなか稼働しないし、何かが必要だと思って、じゃあ「静岡で暗室部っていうのを作ろう」って。で、僕が中心になるよりもお客さんが中心になってもらったほうがいいなと思って、もともと暗室をすごく使ってくれてた、二十代の男の子と女の子の2人に部長と副部長になってもらった。やっぱり僕が考えると偏ってしまうこともあるし、よりユーザー寄りの話を聞けるので。
このスペースは「とりこ」っていう名前で、撮影会をきっかけに集まったお客さん達が考えてくれたものなんです。「写真を撮り(合い)っこする」とか、「写真のとりこに」っていう意味が込められています。
藤本:若いお客さんが多いですか。
大野:そうですね。20代から30代でそれぞれいろんな仕事をしながら、趣味として写真が好きで、っていう方々ですね。フィルムカメラ好きの仲間同士でおもしろい店があるよって、口コミで広げてくださったり、誘い合って来てくださったりして。静岡市内だけじゃなくて、市外からもけっこう来てくださるんです。あと、たまたまお客さんで高校の写真部の先生の方がおられたので、高校生とギャラリーで写真展をやったり、何かいっしょにできませんかって話をしてるんです。高校生くらいになると、もう初めてのカメラがデジカメだったという世代だから、そもそも選択肢にフィルムがないんだと思うんですよ。だから、まずはフィルムという存在を知ってもらえたらって。
藤本:そうですよね。今の高校生くらいだと、写真の原体験がすでにデジタルだから。
その一枚に写すメッセージ
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藤本:これは大野さんが撮られた写真ですよね?
大野:はい。以前、近くの神社で開催されたマルシェで「大野さんも何かやってもらえませんか?」ってお話をいただいて、物を売るのも違うしなぁ、と考えていた時に、撮影をやろうって。そこから続いています。家族写真を撮影することはこれまでにもあったんですけど、なかなか笑顔で写ってもらうのは難しいですよね。そういう時にどうしたらいいのかなってずっと考えてきたんですけども、一度、結婚式の撮影を担当した時に、最後のスライドショーで新郎新婦のご両親の結婚式の写真が映って、それを見てすごく感動したんですよ。笑顔はなく、堅い表情で緊張がものすごく伝わってくる写真で、当時の2人はまだ子どももいなくて、そもそもできるかもわからないような状況だったけど、今こうして成長した子どもの結婚式に出ている。そう思った時に、その写真から時を超えて伝わってくるメッセージを強く感じたんですね。
藤本:なるほど。
大野:だから僕が撮影する時には「10年後20年後の自分に向けて、何かを考えながら写ってください」って言うんです。撮影はフィルムで、しかもシャッターは3回だけ。
藤本:3回! 撮る方も撮られる方もすごい緊張感ですね。
大野:今の方々はデジタルカメラで何枚でも撮影できるっていう意識が根付いてるから、それとは違うんですよっていう緊張感が逆にいいと思っています。で、セレクトも僕がします。これをやってみた時に自分の中で手応えがあって、「未来のあなたへ」っていうタイトルで今も続けています。フレームは静岡の木工作家さんと話をして、イチから作ってもらったものなんですよ。
藤本:このフレーム、すごくいいですね。かわいい。
大野:おかげさまで、この取り組みを始めてから、「下の子が生まれたから、大野さん撮ってください」とか声をかけてくれる回数が増えてきて。結婚式の撮影のお話が増えたり、これがきっかけで何かが動き始めている感じがしますね。
父の写真が教えてくれたこと
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大野:僕は、写真が好きだから写真屋になったのかっていうと違うんですよ、ただ継ぐべき商売がたまたま写真屋だっただけで。それが、店を改装する少し前から、自分で常にカメラを持つようになって、そこから自分のなかで写真やカメラが切り離せない存在になった。そのくらいから、やっと写真の楽しさってなんだろうって考えるようになったんですよ。以前の僕とは違って、父は写真が大好きで、どこに行くにもカメラを持ち歩いていたんですね。バレーボールの写真もいっぱい残っていますし。
藤本:中高生の頃の写真って、男の子は普通ほとんど撮らないから、めずらしいですよね。
大野:そうですよね。恥ずかしくて嫌そうな顔して写ってますけど(笑)、バレーをやっている時の写真とか、たくさんあります。それだけじゃなくて、父は「飯食おうか」って近所のラーメン屋さんに家族で行った時でも、必ず最後に集合写真を撮っていたんですよ。
藤本:ああ、それはすごい。
大野:そう。当時は全く思いませんでしたが、今改めて手にすると、すごく嬉しいですよね。こうしてのこっている昔の写真一枚一枚が、自分のやっている今の活動に少なからず影響を与えている気がします。葬式の時も、僕でも知らないバレーボール部の後輩がたくさん来てくれて。僕が卒業してからもずっと、みんながバレーをしているところの写真をたくさん撮って、たくさんあげていたみたいなんですよ。
藤本:後輩たちに、お父さんの気持ちが伝わっていたということですよね。
大野:ですよね。そう、店に置いているフィルムカメラの半分は父の使ってたカメラなんです。
今、写真館で使っている6×6の中判カメラは、父が晩年に欲しくて欲しくて、念願かなって買ったもの。ですが、ほとんど使うことなく亡くなってしまったんですよ。でも父が、これをのこしてくれたからこそ、今、僕は撮影会をやっているんですよね。
静岡市葵区駿府町1-46 TEL:054-252-2364
http://ohnocameraworks.eshizuoka.jp/
ギャラリー&レンタル暗室 とりこ
http://torico.eshizuoka.jp/