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nakaban

画家

絵画を中心に絵本、アニメーションなど多方面で活動中。最近の代表作はアニメーション作品の『Der Meteor』(noble)、絵本の『チョロコロトロりんごのくにへ』(学研)、『ころころオレンジのおさんぽ』(イーストプレス)、詩:青柳拓次による『つきのなみだ』(millebooks)など。 また2010年よりランテルナムジカ(トウヤマタケオ:音楽 nakaban:幻燈)として各地でライブを開催。
2011年1月末より大阪・Calo Bookshop & Cafeにて展覧会『素描と靑茶印刷』を開催予定。

http://www.nakaban.com/

突然、現れた“魔法の時間”、
感動でビリビリ震えるほどだった。

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─ 空と水辺がすごい色。まるでnakabanさんが描く絵のような。どのような状況だったのですか?

アメリカのフロリダ半島を、友人のライターとカメラマンと一緒に旅をしていたんです。どこか意外なところに行って記録を残すというのが目的で。僕にとっては、スケッチ旅行だったんです。この日は、朝からずっとレンタカーを走らせていました。マイアミからキーウエストに行くまでの、左右を海で囲まれた細く長い陸地を、時々、休憩をいれながら移動していました。
このときは、車を降りたら、ちょうど太陽が落ちて、真っ暗になるまでの一瞬。マジックアワーだったんですね。マジックアワーというのは、ちょっと非現実的な時間なんです。太陽は沈んでいるのだけど、光が空の天蓋にうつって、その光がどこか遠くで反射して、ぼわっと明るい不思議な時間。さらに、光はどんどん移り変わっていく。極端にいうと5秒ごとに変わっていく。その世界というのがとてもキレイで、思わず写真を撮ってしまったんです。

─ 旅のなかでいろいろなシーンをスケッチしていたと思うのですが、この瞬間を絵で残したいという気持ちはなかったのですか?

青い光、赤い光、白い光、黒い光と、オパールのように全部の色がまざっている不思議な景色で、絵にはとても描けないと感じたんでしょうね。写真に撮りたいなぁと思ったんです。かといって、写真でも全部を再現することは無理だということはわかっているんですよ。これはきれいな写真だけど、あの時とは全然違う。写真って不完全なものだからいいのであって、たとえば技術が進化したとしても、3Dで匂い付きで音も出て……、というふうにならないほうが僕はいいと思っているんです。全部を再現してほしくない。

─ 不完全という前提があるのに、それでも写真を撮りたくなってしまうのは、どうしてなんでしょう。

結局はものすごい感動したから。この時間、この場所に、どうして自分はいることができるのだろうって、そういうことを考えていた。たとえば、ライブを見ているとき、音楽を聞いて空間を共有していることの喜びとか、驚きを感じている時のように。写真を撮るのって、そうしていろいろなことを感じた時間に杭を打つようなことだと思うんです。 それと、普段は辛口の友人が感動していたことも大きかった。一緒に旅をすると友情が芽生えるじゃない。珍道中でロードムービーのような感じで。結局あれは三人で行った旅だから、三人そろって感動していたあの時間を含めて撮っていたような気もする。

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過ぎていく時間、消えてゆく光を名残惜しみながら、その時々を愛しむ。

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─ よく見ると、人らしきものも写っていますね。

突然、サーフボードに立ってパドルを漕いでいる人がやってきた。人がいそうにない場所に、すーっと現れて、そのまますーっと去っていったの。海はものすごく凪いでいるのだけど、このときに生まれた波が、またきれいだった。実は、僕、どこかへ行って凍り付くほど感動することって、これまで経験をしたことがなかった。でも、あのときは立っていられないほどビリビリ震えましたね。だから、このサーフボードの人がもっと手前にいるときに撮っていたら、構図的にはもっとよくなっていたのでしょう。でも、はっと我に返って、ようやく写真を撮り始めたというわけです。

─ 今回、この写真を選んだのも“時間に打った杭”のように、あのときの気持ちを思い出せるものだから?

やっぱりマジックアワーって、すごくいいなぁと僕は思っていて。今、この瞬間も、地球のどこかで時間のあわいのような場所がある。以前、旅したモロッコのように、人々がその時間に集まって、暮れゆく景色を眺めるのを日課にしている場所もある。どうして、その人たちが集まっているかを考えると、どうして僕が写真を撮ったかと同じで、“名残惜しむ”という気持ちがあると思うのね。時間とか光というのは、過ぎ去ってしまうもの。だけど、そういう場所に集まって、その時間を大事にしたくなる気持ちというのは、人間の根本にあるような気がする。“こんないい光が行ってしまうのはもったいない”という感覚ではなくて、行ってしまうということはわかっている。でも、あとから写真を見ると、その場所にちゃんと戻っていくことができるという感覚。

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小説を読むときのように、今との関係性によって、見えてくること、感じることも変わる。

─ nakabanさんはFUJIFILMで『ぼくとパクパクせいじんとフォトブック』という絵本を作成されました。デジカメで撮った写真をパソコンに入れっぱなしにしていると“パクパクせいじん”がやってきて、突然食べられてしまうかもしれないよというお話しでした。ご自身は、普段はどのようにして写真を保存していますか?

息子を撮った写真は、おじいちゃん、おばあちゃんに送るという口実でちょいちょい焼いてはいたんです。でも、この絵本を作っているまさにそのとき、パソコンが壊れて息子が2歳の誕生日に撮った写真が飛んでしまった。絵本の内容も、パソコンにいれたままだと、いつかデータがなくなって思い出も消えちゃうからプリントアウトしようという提案だっただけに、デジタルだけで写真を残すということの脆弱性を意識しました。

ぼくとパクパクせいじんとフォトブックマン

─ 写真を撮ること、残すことの意味って、なんなんだろう? と考えられたとか。

子どもが大きくなるから記録しておきたいということもありますが、たんなる“保存”という感覚ではないですね。さっきも言ったけど、写真って不完全なものだから、写真を見ることで、まわりのいろいろなことを思い出すというのが目的だと思うんですよ。昔の家の写真を見たら、そこには写ってないご近所さんのこととか、小さなキッチンのことか、周囲の状況や気持ちも一緒に思い出す。

さらにおもしろいのが、今との関係性によっても見えてくること、思うことが違ってくるということ。小説を読むたびに違うことを感じるように、写真も見るごとに感じることが違う。だから、写真を見返す機会って、すごい大事なんだと、今回、あらためて思いました。家族写真だと思い出は無限だし、こうした無機質な風景写真でも思い出すことがいっぱいあるから。

でもね、今回の旅の写真を見返していると、だんだんと自分が立っていた場所と海と空の境界がなくなっているような気がするんですよ。自分が宙に浮いている気分にもなる。マジックアワーだからというのもあるんでしょうが、写真を天地逆さにしてこっちが空で、こっちが地面でもいいような気もしてくる。ほんと、現実として風景に立っていたあのときから、どちらでも不思議ではないなぁという感覚だったのですが、年々、その思いは強まるばかりです。

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2010/11/30 取材・文 岡田カーヤ/構成 MONKEYWORKS
写真 藤堂正寛/Webデザイン 高木二郎

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