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今回、僕たち「しゃしんのかたち」取材チームが向かったのは、鳥取県東伯郡琴浦町にある赤碕(あかさき)という町。鳥取県のほぼ中央。大山を臨む田園地帯と日本海に挟まれたのどかな町です。そこで「かげやま写真スタジオ」という写真屋さんを営む、陰山光雅さんにお話を伺うべく、やってきたのでした。

しかし実は、僕が陰山さんの元に訪れるのはもう5度目。陰山さんに、初めてお話を伺ったのは、もう5年以上前になります。当時、すでにデジタルカメラ全盛の時代。確かにデジタルカメラは素晴らしいけれど、フィルムカメラにはフィルムカメラの良さがあると感じていた僕は、写真はのこっていくことにその使命があるはずという考え方のもと、写真をプリントしてのこしていくことの大切さについて日々考えていました。そう考えたときに、デジタル一辺倒な流れのなか「安い」「早い」ばかりを強調するまわりの写真屋さんに、なんだか疑問を感じていたのです。

そんなとき、僕は偶然、陰山さんに出会いました。山陰地方の小さな町で見つけた「かげやま写真スタジオ」その店の店頭には手書きの貼り紙がたくさん貼ってありました。

そこに書かれていたことは「運動会でビデオ回しても、なかなか後で見ませんよ。写真を撮ってアルバムが一番です」とか「遺影写真きちんと撮っておきませんか?」とか「のこしていくことを考えたら、やっぱり白黒が一番ですよ」など。こんな地方の小さな町で、真摯に写真屋さんの使命を全うしようとしている人がいる。僕はそれ以来、写真のこと、写真をプリントしてのこしていくことについて、迷ったときは陰山さんに会うためにこの町にやってくるのでした。

藤本:ご無沙汰しています。とはいえ、よく来てますね、僕。

陰山:そうですね(笑)。

藤本:今回、僕はどうしてもまた陰山さんの話が聞きたくて来たんですけど。それはやっぱり去年の震災のことが大きいんです。去年、僕は富士フイルムさんが被災地で果たしてきたことの取材も含め、津波で流されてしまった写真プリントの救済現場をたくさん見てきたんですね。

陰山:なるほど。

藤本:そこで僕は写真というもののチカラを感じたと同時に、なんだかどうしようもなく落ち込んでしまいました。それはなぜかというと、大量の写真プリントやアルバムが、体育館などに集められてくるんですが、こんなにたくさんある写真たちのなかに、ここ10年のプリントがほぼない、という事実を目にしてしまったからなんです。そこに集められた思い出のすべてと言っていいくらいの写真プリントが、かつてフィルムカメラで撮って写真屋さんで現像された銀塩プリントでした。

陰山:そうでしょうね。

藤本:僕は陰山さんに出会ってから、デジタル時代にあってなお「プリントしようよ」「アルバムつくろうよ」と言い続けてきましたが、どうやらこのデジタルカメラを軸にした写真文化の一連の仕組みは、プリントすることを前提としていないんだなという、当たり前のことに気づきました。デジカメで撮ったものをプリントしてください、と言うのは、シンプルに「なんで?」って返答されてしまうくらい無理のある行為なのだと。そのことについて、「あるはずの写真プリントがない」という現実を見て痛感したんです。さあ、困りました。陰山さん、どうしましょう?

陰山:僕はね、富士フイルムさんが白黒フイルムを作り続けているっていうのが、明らかなメッセージだと思っているんです。僕が実感していること、つまり、白黒が一番長持ちするってことは、技術者みんな知っているんです。丁寧にやれば100年以上もつんですよね。それが証明されているのは、今でも銀塩の白黒しかありませんから。実際に100年以上前の写真が今でもあるわけですからね。しかもそのシステムは全く変わってないですから。白黒からいろいろ変わって今はデジタルになって、プリントが銀塩からインクジェットになったことで、便利なんですけど、保存という点ではいいのかどうか。家に例えるなら、半日あればプレハブ1軒できちゃう。それを木の家なら半年かかる、その代わり100年住めますよと。だから、確かにプレハブは半日で建っちゃうんだけども、冬は寒い、夏は暑くて、当然長持ちしない。そういうことを、お客さんが知ってたらいいんだけど、知らないで「はいっ出来ました。どうぞ!」っていうことは問題だと思うんですね。

藤本:でも、インクジェットのプリントすらしてないんですよね。結局、写真屋さんに通う人の手もとにだけ、プリントがのこっていく。

陰山:だから僕は写真屋として、間違いなく白黒の銀塩はちゃんとやれば100年もつから、それをきちんとアピールしよう、と。時代がいくら外れても、それは本当だから。自分だけでもきちんとアピールはしよう、と。で、アピールに応えて、こういうインタビューを見てくれた人が石川県から来られたりとか。僕としてはすごい嬉しいんです。金銭的なことよりも、アピールしたことをそうやって受け止めてくれて、つながりが出来て。人数は少ないけれど、そうやってわざわざお金をかけて県外から来てくれることに応えて、ベストな仕事をしようってね。

藤本:その人はどういう方だったんですか?

陰山:婚約されたカップルで、今の自分たちをのこしておきたい、将来子どもや孫へ見せたいということで、スケジュールを合わせて来てくれたんです。僕はとにかく期待に応えなきゃいけない、と。自分としてもそうやって来てくれると嬉しいし、頑張って一生懸命撮って。それがどんどん増えればいいんですけど。まあ、現実には県外からやって来るなんてことは大変なことで。だから、こうやって遠くからわざわざ来てくれる人がいるってことは、少なくともその5倍くらいは、響いてくれた人がいるんだろうなって信じてやってます。

藤本:震災を経て、今の時代になって、やっぱり陰山さんが言ってたこと、やってきたことっていうのが、意味ある時代になりましたよね。

陰山:はい。そうかもしれないですね。

藤本:だけどそれが、陰山さんが自らおっしゃるように、広く一般の人がどんどん白黒の銀塩を使うかっていうとそうはならない。

陰山:仮に「白黒いいですね」と思っても、実行に移す人はごく一部だと思うんですよね。カメラがあれば別ですけども、ない場合は中古を買うなりNATURAを買うなりして、実行に移すのは10分の1くらい。いや、そんなにいないかな。それでも、とにかくメッセージを出していきます。

藤本:そもそも「かげやま写真スタジオ」はお父さんが始められたんですよね。どんなお父さんだったんですか?

陰山:ふつうのお父さんです(笑)。

藤本:写真のことはお父さんから習ったりしました?

陰山:はい。でもあんまり欲とか向上心もないし、ふつうの親父で。だから若かった僕にとっては不甲斐なく見えて、よく胸ぐらつかみ合ってケンカしたり。男っていうのはそういうことあるんですよ。死んじゃってから、ごめんなさいって謝るんだけど(笑)。だけどね、若いときは父がほんと不甲斐なく見えるの。しっかりしろよっていうかね。でも、自分がいろいろ経験してみると、家庭だったりいろいろバランスがあるから、そういうことがわかってくる。

藤本:お父さんの頃は写真屋が儲かってた時代ですよね?

陰山:儲かってました。ただ、若いときの自分の考えとしては、体が元気なうちは写真に没頭してほしくてね。時間が出来たときだけでも、写真の本を読んでる姿が見たいし。仕事終わったら作品に取り組むとか。だけども、父は作品とかそういう活動は全くなくて。でも、僕は仕事は仕事としてきっちりやりながら、それ+αのところで人間として価値があるんじゃないかと。奉仕って言ったら変ですけど、表現することで写真というものに貢献できると思ってました。そういうことは父は全くなかったんで。まあ、仕事だけでもいいんですけどね。僕はそういうのがすごくあったから。

藤本:この町に他にも写真屋さんはあるんですか?

陰山:ありますよ。それこそ塩谷定好さん(1899年、赤碕生まれ。芸術写真の分野で国内の草分け的存在として活躍、海外での評価も高い)のところも元々は営業写真館をやってらしたから。実家なんですけどね。それはずいぶん前にやめられたんですけど。

藤本:そうでしたか。やはり塩谷さんはこの町では有名な方でしたか?

陰山:そうですねえ。塩谷定好さんのお父さんが、赤碕町の最初の町長なんですよ。昔は納税額が多い人が町長になるみたいな時代なんで(笑)。


今も残る、塩谷定好さんの生家。ここに塩谷定好記念館をつくる計画がすすんでいます。

藤本:へえ〜。ちなみに、今でもこの町で営業されてる写真屋さんはありますか?

陰山:ええ、ありますよ。

藤本:そうなんですね。きっとそのお店もそうじゃないかなあと思うんですけど、今って、どこの写真屋さんでも大きいパソコンが陣取ってるじゃないですか。陰山さんのお店にはないから珍しいですよね。

陰山:僕はブログとかもだめなんですよ。よくみんな日記みたいなものを人に見せられるなって(笑)。僕は絶対見せないタイプだし、人間って、さっき言ったようにバランスがあるんで。そっちのほうに時間をとられると、歳をとった時に「しまった、あれもしたかったのに……」って後悔することになる。今は暇ができると写真の本を読んだりとか、撮りたい写真の勉強をしたりとか。

藤本:写真はいつ撮ってるんですか?

陰山:店閉めて、日帰りでよく撮影に行きます。

藤本:お店の定休日は?

陰山:日曜日です。だから日曜日はほとんど居ませんけどね。朝、飛行機に乗って東京へ行って、その日に帰って来たりとか。

藤本:せっかくだから今日は、ちょっとだけ赤碕の町を散歩できないですか? 最初に来た時からこの町の景色が僕大好きなんです。なのでぜひ一緒に。

陰山:ええ。いいですよ。


赤碕の町並みと日本海。

そこから僕は陰山さんとともに、赤碕の町をカメラ片手に散歩しました。平日の昼間の赤碕の町は、とても静かで、たまにすれ違う人たち全てに挨拶をする陰山さんを見ながら、この町の人たちはなんて幸福なんだろうと思いました。写真屋としての使命を果たすべく、白黒写真の大切さを訴えつづける陰山さんは、ハッキリ言ってかなり変な人です(笑)。だけど、そのおかげで守られているこの町の記録があります。

赤碕小学校の前の坂をくだる途中、1本の木に出会いました。それは、北風(季節風)が強すぎて曲がってしまったとても変なカタチをした木でした。「今は穏やかだけど冬はすごいですよ。日本海が鉛色になってね。雪降る頃は10メートル以上(風が)吹きます。台風くらいにガーって」そんな風に説明してくれる陰山さんと、その木が、僕のなかで1つに重なっていきました。逆風をものともせず、踏ん張り続ける陰山さん。データでなく写真をプリントというカタチにして欲しいなんて、無茶すぎる。そう思いかけていた僕ですが、たとえばネットプリントのようなあたらしいアプローチもあるんだから、もう少し踏ん張ってみよう。そう思わせてもらいました。


(左上)ロンドンオリンピックで銅メダルを獲ったアーチェリーの川中香緒里選手は赤碕中学校の卒業生。
(右上)写真家としての顔も持つ陰山さんは『Japan,Japanese』という作品集を出版されています。
(左下)きれいに建て替えられた赤碕小学校。旧校舎の姿は陰山さんのモノクロ写真で残されています。
(右下)海岸ではイカの一夜干しが。

鳥取県東伯郡琴浦町赤碕699 TEL:0858-55-0555

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